ドビュッシー「月の光」 あの浮遊感は、どこから来るのか

月明かりに照らされた夜の水辺を写した写真に、「楽譜の景色が一変する」の見出しを重ねたアイキャッチ
写真=月明かりの水辺/W.carter(Wikimedia Commons, CC0)/文字は編集部

「月の光」の楽譜を開くと、冒頭はフラットが5つ並んでいます。変ニ長調です。

ところが第37小節で、調号がシャープ4つに書き換わります。フラットが消えて、シャープが現れる。見た目としては正反対です。

それでいて、奏者が押す鍵は変わっていません。この曲の浮遊感の正体は、かなりの部分がここにあります。

まず、楽譜から読み取れる事実

初版の版元 E. Fromont の1905年版を底本にした組版データから、数値を機械的に抜き出しました。

項目値
曲組曲《ベルガマスク》第3曲「月の光」
作曲1890〜1905年
初版1905年 パリ、E. Fromont
調変ニ長調(フラット5つ)
拍子9/8(全曲を通して変化なし)
メトロノーム指定なし
反復記号なし
冒頭の指示Andante très expressif / con sordina

第37小節で、何が起きているのか

調号の切り替わりを小節番号で押さえると、こうなります。

小節発想標語調号強弱
1Andante très expressif変ニ長調(♭5)—
15Tempo rubato変ニ長調—
27Un poco mosso変ニ長調pp
37En animant嬰ハ短調(♯4)—
43Calmato変ニ長調(♭5)pp
51a Tempo 1º変ニ長調—
66—変ニ長調ppp

第37小節から第43小節までの7小節間だけ、嬰ハ短調で書かれています。

ここで重要なのは、変ニ(D♭)と嬰ハ(C♯)が、ピアノでは同じ鍵だということです。音の高さは1ミリも動いていません。

なぜ、わざわざ書き換えるのか

変ニ長調を同じ主音のまま短調にすると、変ニ短調になります。

この調は、フラットが8つ必要です。五線譜の調号にフラットは7つまでしか置けません。8つ目を書こうとすると、重フラット(1音を2つ下げる記号)が出てきて記譜が破綻します。

そこで、同じ高さの嬰ハ短調に読み替えて書きます。こちらはシャープ4つで済みます。

記譜実際の鍵
変ニ短調(書けない)フラット8つ—
嬰ハ短調(実際の記譜)シャープ4つ同じ

つまり第37小節で起きているのは、転調というより「綴り直し」です。響きとしては変ニ長調が同じ高さのまま短調に翳る。記譜としては♭5が♯4に入れ替わる。

「調号が変わる=転調」ではない

楽譜の途中で調号が変われば転調した、と読むのが素朴な理解です。この曲は、その理解が通らない実例になっています。

奏者の側から見ると、感覚はさらに奇妙です。押している鍵は同じなのに、楽譜の景色だけが一変する。フラットだらけのページが、突然シャープだらけになります。

聴き手にとっては、ここが曲の中でいちばん翳る場所です。En animant(動きを出して)と指示があり、7小節だけ性格が変わって、Calmato(落ち着いて)で元の明るさに戻ります。

この「同じ場所にいながら色だけが変わる」感触が、浮遊感と呼ばれるものの一部を作っています。

強弱記号は、全部で8個しかない

約70小節の曲に、強弱記号がいくつ書かれているか数えました。

記号回数
ppp1
pp4
p2
f1
ff / fff / sf0

合計8個。f はたった1回で、それより強い指示は存在しません。

当誌では先月、ベートーヴェンの「月光」第1楽章を同じ方法で数えました。69小節に強弱6個、f 系はゼロ。規模も、強弱の少なさも、ほぼ同じです。

1801年のベートーヴェンと1905年のドビュッシー。100年離れた2曲が、どちらも「大きな音を書かない」という同じ選択をしています。

速度は、言葉でしか決まっていない

この曲にはメトロノーム指定が一切ありません。速度に関する指示は、すべて言葉です。

Tempo rubato(拍を揺らして)、En animant(動きを出して)、Calmato(落ち着いて)、a Tempo 1º(最初の速さで)。どれも数値を伴いません。

演奏ごとに長さが変わる理由は、解釈の幅という以前に、楽譜が数値を決めていないことにあります。「速い演奏」「遅い演奏」という評価の前に、そもそも基準が書かれていない曲だということです。

書法の細部

残りの要素も数字で押さえておきます。

アルペジオ記号が12回。和音を同時に鳴らさず、下から順に分散させて弾く指示です。輪郭をぼかす効果があります。

冒頭から con sordina。左のペダル(弱音ペダル)を踏んだまま始めよ、という指定です。音量だけでなく音色そのものを最初から落としています。

9/8拍子。1小節が3拍で、各拍がさらに3分割されます。3の入れ子構造です。「月光」第1楽章を支えていた3連符と同じく、3で割る動きが全体の土台になっています。

2曲を並べると

「月光」と「月の光」。邦題が似ているせいで混同されがちな2曲ですが、楽譜を数字で並べると共通点が見えてきます。

月光 第1楽章月の光
小節数69約70
強弱記号6個8個
f 系0回1回
3分割の動き3連符9/8拍子
嬰ハ短調全体の調第37〜43小節

どちらも嬰ハ短調という同じ調号を通ります。片方は曲全体の調として、もう片方は7小節だけの翳りとして。

似ているのは邦題だけではなかった、ということです。続けて聴くと、100年の隔たりの中にある共通点のほうが見えてきます。