この楽章の旋律は、たぶんクラシックの中でいちばん広く口ずさまれている旋律のひとつです。変イ長調、Adagio cantabile(ゆるやかに、歌うように)、全73小節。8小節の主題が、そのうち5回鳴ります。
ところが譜面を数えてみると、5回のあいだで旋律はほとんど動いていません。音高がほぼそのまま戻ってくる回もあります。動いているのは、伴奏の発音数(1小節の中で音が鳴らされる回数)です。1小節あたり8個、16個、8個、12個、24個。この5つの数字が、いわゆる「あの美しさ」の設計図でした。
今回は印象を書きません。パブリックドメインの校訂版を機械にかけて数え、出てきた数字だけを並べます。
先に、何をどう数えたか
底本(数える元にした楽譜)は、Durand 社1915年刊のパブリックドメイン校訂版(Paul Dukas 校訂)です。これを Humdrum kern 形式(楽譜をテキストデータに置き換える形式)で符号化した公開データを使いました。そのデータから、小節ごとの発音数・音価(音の長さ)・音高を機械的に集計しています。全長は73小節で、この楽章には繰り返し記号がないため、版が変わっても小節番号はずれにくくなっています。
数えた対象は「伴奏声部の1小節あたりの発音数」です。分散和音を1音ずつ、和音は構成音の数だけ数えました。
限界も先に書きます。強弱記号とアーティキュレーション(音のつなぎ方・切り方の指示)には、校訂者の判断が入り得ます。そのため本稿では論拠にしません。使うのは小節番号・音高・音価・発音数だけで、数えているのは打鍵の回数です。音量や打鍵の重さは数えていません。
数字に入る前に、まず楽章をひととおり聴いてみてください。
♪ 試聴:ベートーヴェン「悲愴」第2楽章
“Sonata No. 8 ‘Pathétique’ – II. Adagio cantabile” by Daniel Veesey / CC0
主題は3回ではなく、5回鳴っています
この楽章は、小ロンド形式 A–B–A–C–A(同じ主題が何度も戻ってくる形式)と説明されるのが通例です。A部を16小節(1〜16)と数える読み方が広く流通しています。実測して並べ替えると、8小節の主題が来る位置は5か所ありました。
| 区分 | 小節 | 長さ | 調 | 伴奏の発音数/小節 | 伴奏の音価 |
|---|---|---|---|---|---|
| 主題 1回目 | 1〜8 | 8 | 変イ長調 | 8 | 16分(1拍を4分割) |
| 主題 2回目 | 9〜16 | 8 | 変イ長調 | 16 | 16分。旋律が1オクターヴ上がり、内声が1つ増える |
| B | 17〜22 | 6 | ヘ短調→ハ短調 | 24(3声の和音を8回) | 16分。伴奏と旋律の役割が入れ替わる |
| B後半(戻り道) | 23〜28 | 6 | 変ホ長調の属和音を保持 | — | 音数が落ち、上声が半音で揺れる |
| 主題 3回目 | 29〜36 | 8 | 変イ長調 | 8 | 16分。1回目とほぼ同一 |
| C | 37〜50 | 14 | 変イ短調→ホ長調 | 12 | 3連符(1拍を6分割) |
| 主題 4回目 | 51〜58 | 8 | 変イ長調 | 12 | 3連符 |
| 主題 5回目 | 59〜66 | 8 | 変イ長調 | 24 | 3連符。旋律が1オクターヴ上がり、内声が1つ増える |
| コーダ | 67〜73 | 7 | 変イ長調 | 36(3声の和音を12回) | 3連符 |
表を縦に読むと、主題の並びは「2回 – B – 1回 – C – 2回」になっています。2回続けるのが基本形で、中央の29小節だけが1回で切り上げられています。教科書の A–B–A–C–A は、この2–1–2をまとめた表記です。
2回目は「もう一度」ではありません
1〜8小節の書法は3層です。右手は4分音符と8分音符で旋律を歌い、左手は変イと変ホの2音を往復する16分音符を敷きます。その下に、持続する低音が置かれます。左手の往復は1小節に8つ、1拍あたり4つです。
9小節でこの主題が戻ってくるとき、変わるのは2点だけです。旋律が1オクターヴ上へ移り、旋律と左手のあいだに16分音符の内声(旋律と低音のあいだを埋める声部)が新しく入ります。左手の往復は手つかずのままです。声部の数は3から4になり、16分音符の発音数は8から16へ倍増します。
つまり歌のほうは触られていません。cantabile を作っているのは旋律ではなく、旋律の周りの密度です。同じ歌を、薄い織物と厚い織物に2回通す。これが冒頭16小節の設計です。
3回目が短いのは、第8小節に置かれた合図で分かります
29〜35小節は、1〜7小節と音高がほぼ完全に一致します。29小節の頭に変イが1つ足されている程度の違いで、聴いていて「戻ってきた」と感じるのは正確な感覚です。
差が出るのは8小節目にあたる位置、つまり8小節と36小節です。8小節の後半には、上声に3連符の上昇アルペッジョ(和音の音を1音ずつ順に弾き上がる音形)が置かれています。変イ・ハ・変ホ・変イ・ハ・変ホ・変イと、2オクターヴを駆け上がります。この楽章で3連符が最初に鳴るのは、第8小節です。
36小節には、これがありません。同じ位置で8分音符2つに置き換わり、そのまま37小節のC部へ入っていきます。
そして同じアルペッジョは、58小節にもう一度現れます。その直後の59小節が主題の5回目、つまり「厚い版」の始まりです。8小節→9小節と、58小節→59小節。どちらもアルペッジョの直後に厚い版が来ています。逆に36小節でアルペッジョが外されているのは、次に来るのが主題ではないからだと読めます。この音形は装飾ではなく、次に何が来るかの合図として機能しているわけです。
弾く側にとっては実用的な話でもあります。8小節と58小節のアルペッジョは、次の8小節への助走です。36小節のそこは助走ではなく、下向きの着地になります。
C部は、変イ短調からホ長調へ渡っていきます
37小節で色が反転します。上声は、変ハと変ホの2音を3連符で刻み続けます(1小節に12回)。低音は変イで、合わせて変イ・変ハ・変ホ、つまり変イ短調です。同主短調(主音が同じ短調)への移動が、伴奏の音価の変化と同じ小節で起きています。
42小節で、臨時記号が一斉にシャープへ変わります。1拍目の低音は イ・ロ・嬰ニ・嬰ヘで、これはロ長調の属七の和音(主和音へ引き戻す働きの和音)です。2拍目は 嬰ト・ロ・ホ・嬰ト で、ホ長調の主和音です。43小節は嬰へ長調の属七を経てまたホ長調へ戻り、44〜47小節はホ長調に腰を据えます。
4つのフラットの調号のまっただ中で、譜面がシャープで書かれているわけです。ホ長調は変ヘ長調の異名同音(綴りは違うが実際には同じ音)で、変イ短調から見れば下中音(VI)にあたります。読みやすさのために綴りを取り替えた、という書法です。
帰り道の作りが、この楽章でいちばん巧妙なところだと思います。47小節の低音は嬰ト。48小節の低音は変イ。鍵盤の上では同じ鍵で、綴りだけがシャープの世界からフラットの世界へ戻っています。同じ音を鳴らしたまま、記譜の側が先に帰ってくる。
48〜49小節は、ニ・ヘ・変イ・変ハによる減七の和音です。50小節で変ホの属七(変ニを含む形)になります。そして51小節で変イ長調の主和音、つまり主題の4回目に着地します。
4回目と5回目は、伴奏だけがC部から3連符を持ち帰ります
51小節からの主題は、旋律は1回目と同じです。伴奏だけがC部の3連符を引き継いでいて、1小節あたり12。1拍が4分割から6分割に変わったまま、同じ歌が乗ります。
そして59小節で、9小節と同じ手が繰り返されます。旋律が1オクターヴ上がり、内声が1つ増え、発音数は12から24へ。
ここまで数字を並べると、この楽章が対になった仕掛けでできていることが見えます。前半に「8→16」の対、後半に「12→24」の対。どちらも倍増で、どちらも旋律は据え置きです。違うのは1拍の分割数が4か6かという点だけです。C部は、その分割数を入れ替えるために置かれた区間だと考えることもできます。
コーダは、いちばん濃いところから始まります
67小節と69小節では、低音が変ホ・変ニ・変ホを3連符で刻み続け、3声で1小節に36音。この楽章の最大密度です。70小節から音数が急に落ち、73小節で主和音に降ります。
最も音が多い場所が終わりの直前に置かれていて、そこから7小節で畳みます。歌い納めではなく、密度の側から締めています。
手と耳で確かめるなら
弾く方への提案をひとつ。1小節目と51小節目を続けて弾いてみてください。旋律の運指は変えず、左手だけを1拍4分割から6分割へ切り替えます。cantabile が伴奏側の仕事であることが、耳より先に手で分かります。
聴く側は、8小節目と36小節目の同じ位置を比べるのが早いです。3連符の上昇アルペッジョがあるか、ないか。ここを掴むと、この楽章のどこにいるのかを数えずに追えるようになります。
最後に限界を。ここで数えたのは発音数と音価だけです。実際にどう響くかは、音量とペダルと打鍵の重さで決まる部分が大きく、そこは数字に出ません。密度の設計は、演奏がのる手前の層の話です。この主題をどう歌わせるか、C部で音色をどう変えるかを自社のピアニストに聞いた回は、準備中です。
楽章の切れ目を耳で追う手がかりのほうを先に固めたい場合は、ソナタ形式は、『運命』第1楽章で覚えるから。あちらは小節番号を使わずに書いています。
作品情報
- 作品名
- ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13「悲愴」第2楽章
- 標題
- Grande Sonate pathétique(初版から標題が付されている)
- 調・拍子
- 変イ長調/4分の2拍子(第1楽章はハ短調)
- 速度・性格
- Adagio cantabile
- 形式
- 小ロンド形式 A–B–A–C–A +コーダ。全73小節
- 主題の回数
- 8小節の主題が5回(1/9/29/51/59小節)。並びは2回–B–1回–C–2回
- 調の骨格
- 変イ長調 → ヘ短調(B)→ 変イ長調 → 変イ短調・ホ長調(C)→ 変イ長調
- 楽譜
- IMSLP でパブリックドメインの校訂版を閲覧できる。本稿の実測は Durand 1915(Paul Dukas 校訂)に基づく