バッハという人 その音楽が今も新しい理由

バッハの肖像画に「実は、職業は「作曲家」ではなかった!?」の見出しを添えたアイキャッチ
肖像=ヨハン・ゼバスティアン・バッハ/エリアス・ゴットロープ・ハウスマン画(Wikimedia Commons, パブリックドメイン)/見出しは編集部

「バッハの誕生日はいつですか」。この質問には、答えが2つあります。

日本語の音楽事典には、1685年3月31日と書かれています。いっぽう、バッハ研究の中心であるドイツの機関「バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ」の年譜では、1685年3月21日です。10日ずれています。どちらかが誤植というわけでもありません。

バッハの生涯を調べていくと、こうした「あとから決まったこと」「あとから動いたこと」に何度も出会います。亡くなってから270年以上たつのに、その人物像は、じつはごく最近まで整理が続いていました。この記事では、その流れを順に追っていきます。

誕生日が2つあるのは、暦が2つあったから

バッハが生まれた1685年、生地アイゼナハでは、ユリウス暦(昔のヨーロッパで使われていた暦)がまだ使われていました。教会の記録に残る誕生の日付は3月21日です。これを、いま私たちが使っているグレゴリオ暦に置き換えると、3月31日になります。

暦が新しくなったのは1582年で、まずカトリックの国々が切り替えました。プロテスタントの国々は長くこれを受け入れませんでした。ドイツのプロテスタント地域が新しい暦に変えたのは、1700年です。バッハは15歳でした。暦が変わる瞬間を、バッハは生きているうちに通り抜けています。

つまり「3月21日」は当時の記録どおりの日付で、「3月31日」は今の暦に直した日付です。バッハ・アルヒーフの年譜は前者を、日本語で流通している事典類は後者を採用しています。どちらの日に祝ってもかまわない、ということでもあります。

職業は「作曲家」ではありませんでした

まず、バッハがどこで何をしていた人なのかを一覧にします。バッハ・アルヒーフの公式年譜をもとに、編集部で在任期間と土地を並べ直したものです。

バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ公式年譜(2026-08-09取得)をもとに編集部で作成。1722年の行は平均律クラヴィーア曲集第1巻の自筆譜(D-B Mus.ms. Bach P 415)表題紙の記載で照合した。
年土地立場資料に残っている仕事
1685アイゼナハ誕生教会記録の日付は3月21日(ユリウス暦)
1695オールドルフ兄の家へ9歳で母、10歳になる直前に父を失う。オルガニストの兄ヨハン・クリストフに学ぶ
1700〜02リューネブルク聖ミカエル学校の合唱生最初期の自筆譜が2006年に発見された
1703ワイマール→アルンシュタットヴァイオリン奏者→新教会オルガニスト半年ほど宮廷楽団に在籍。7月に新造オルガンを試奏し、そのまま採用
1707ミュールハウゼン聖ブラジウス教会オルガニスト10月にマリア・バルバラと結婚。翌年カンタータ第71番(BWV 71)初演
1708〜17ワイマール宮廷の室内楽師・オルガニスト→楽師長オルガン曲・鍵盤曲と30曲以上のカンタータ。1714年の昇進で毎月の新作が義務になる
1717〜23ケーテン宮廷楽長1722年、平均律クラヴィーア曲集第1巻の自筆譜(表題紙にケーテンの楽長と自署)
1723〜50ライプツィヒ聖トーマス教会カントル日曜と祝日ごとのカンタータ。ヨハネ受難曲(1724)、マタイ受難曲(1727)
1736(ライプツィヒ在任中)ザクセン選帝侯・ポーランド国王の宮廷作曲家11月に任命。学校長との衝突が続く時期の後ろ盾になった
1747ポツダム・ベルリン—フリードリヒ2世を訪問。『音楽の捧げもの』のもとになった
1750ライプツィヒ—4月に眼の手術、合併症で再手術。7月28日没

「立場」の列を上から下まで読んでみてください。オルガニスト、室内楽師、楽師長、カントル(教会音楽をまとめる責任者)、宮廷作曲家。どれも、誰かに雇われている人の役職名です。「作曲家」という独立した職業の行は、ひとつもありません。作曲は、それぞれの職に付いてくる仕事のひとつでした。

宮仕えの厳しさが表に出た年もあります。1717年、バッハはケーテン宮廷の楽長になる契約に署名しました。ところが、それまで仕えていたワイマール側は、まだ退職を認めていませんでした。そのため命令に背いたとみなされ、1か月のあいだ拘留されています。釈放されたのは12月で、決して良い形の退職ではありませんでした。

毎週、新しい曲を1曲書く仕事

1723年からのライプツィヒ時代が、いちばん忙しい27年間です。聖トーマス教会カントルの仕事には、日曜と祝日ごとに教会でカンタータ(合唱と楽器で演奏する教会用の曲)を演奏することが含まれていました。その数は年に60曲前後です。しかも、自分で作った曲を用意するのが前提でした。

息子のカール・フィリップ・エマヌエルによると、父は1年分のカンタータをひとまとめにした「年間巻」を5組書いたそうです。ところが、現存するのは3組弱です。教会カンタータだけで、およそ2年分がまるごと失われています。

1730年には、市参事会(今でいう市議会にあたる組織)に10ページの文書を提出しました。文書には「よく整えられた教会音楽のための、短いながらも最も必要な草案」という題が付いています。内容を一言でいえば、人手と予算が足りないという訴えです。合唱団と管弦楽をきちんとした人数にするために、増額を求めました。その書類が、300年後の今も残っています。バッハを「楽聖」のイメージから先に想像すると、こういう生活の匂いのする資料は見落としがちです。

24の調を、全部やる

平均律クラヴィーア曲集という曲集があります。音楽の調(曲の音の中心をどこに置くかの種類)には、長調が12、短調が12あります。この曲集は、合わせて24の調のそれぞれに、前奏曲とフーガ(ひとつの旋律を複数の声部が追いかけ合う曲)を1組ずつ収めたものです。第1巻で24組、のちに書かれた第2巻を足すと48組になります。

この第1巻の自筆譜(バッハ本人が手で書いた楽譜)は、ベルリン国立図書館に1点だけ残っています(資料番号 D-B Mus.ms. Bach P 415)。表紙を書いたのはバッハ自身です。そこには1722年という年と、「アンハルト=ケーテン侯の楽長」という自分の肩書が記されています。この曲集がケーテン時代の仕事であることを、譜面の表紙が自分で証言しているわけです。

表紙には、この曲集の目的も書き添えられています。学びたい若い音楽家の役に立つこと。そして、すでに上手な人の気晴らしになることです。つまりこれは、傑作をひとつ打ち立てるための曲集ではなく、教材です。24の枠を全部埋める、という設計で作られています。

タイトルにある「クラヴィーア」は、特定の楽器の名前ではありません。鍵盤楽器をまとめて指す言葉です。どの楽器で弾くかは、最初から決められていません。だから今、ピアノで弾かれても、チェンバロで弾かれても、ギターやシンセサイザーに置き換えられても、曲そのものはきちんと成り立ちます。

全体像が確定したのは、私たちの時代

ここからが、タイトルの「今も新しい」の中身です。

バッハが生きているあいだに印刷された作品は、ごくわずかでした。年表に挙げたカンタータ第71番は、その数少ないひとつです。残りの曲は手書きの譜面のまま、弟子や息子たちの手で書き写されました。そして、あちこちに散らばっていきました。

散らばった作品の全体に番号が振られたのは、1950年です。ヴォルフガング・シュミーダーという研究者が作品目録を作り、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から出版しました。以来、バッハの曲はこの目録の略称「BWV」で呼ばれています。ちょうど、没後200年の年でした。

同じ1950年の11月20日には、ライプツィヒにバッハ・アルヒーフが設立されます。散らばった資料を、失われる前に集めておくためでした。学術的な全集である「新バッハ全集」が完結したのは2007年で、最終巻は第103巻です。さらにバッハ・アルヒーフは自筆譜をスキャンして「Bach Digital」というサイトで公開しており、300年前の手書きの譜面を、いま自宅の画面で拡大して見られます。

バッハの全体像が今の形に落ち着いたのは、20世紀後半から今世紀にかけての作業の結果です。「今も新しい」というのは、じつは褒め言葉ではありません。整理が終わってから、まだ日が浅いという意味での新しさです。誕生日が2つ流通しているのも、同じ理由から起きている同じ現象です。

3曲だけ、決めておきます

バッハは作品の数がとても多いので、最初に聴く曲を決めておくほうが早いです。ここでは3曲だけ挙げます。

1曲めは、管弦楽組曲第3番の「アリア」です。「G線上のアリア」という名前で、結婚式や式典で耳にしたことがあるはずです。2曲めは、平均律クラヴィーア曲集第1巻の第1番、ハ長調の前奏曲です。2分ほどで終わる短い曲で、さきほどの「24の枠」の1番目にあたります。3曲めは、無伴奏チェロ組曲第1番の前奏曲です。チェロ1本だけなのに、いくつもの音が重なって響いているように聴こえます。

順番どおりに全部を聴く必要はありません。3曲で足りなくなったら、そのとき次を探せば十分です。誕生日が2つある人の音楽ですから、聴き方もひとつに決まってはいません。

人物データ

氏名
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)
生
1685年3月21日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では3月31日)/アイゼナハ
没
1750年7月28日/ライプツィヒ(65歳)
主な任地
アルンシュタット(1703)/ミュールハウゼン(1707)/ワイマール(1708〜17)/ケーテン(1717〜23)/ライプツィヒ(1723〜50)
作品番号
BWV(Bach-Werke-Verzeichnis)。ヴォルフガング・シュミーダー編、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社、1950年初版
代表作
平均律クラヴィーア曲集、ゴルトベルク変奏曲、ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲、無伴奏チェロ組曲、マタイ受難曲、トッカータとフーガ ニ短調
資料
自筆譜の多くはバッハ・アルヒーフ・ライプツィヒの Bach Digital で公開されている