「月の光」の楽譜を開くと、冒頭はフラットが5つ並んでいます。変ニ長調です。
ところが第37小節で、調号がシャープ4つに書き換わります。フラットが消えて、シャープが現れる。見た目としては正反対です。
それでいて、奏者が押す鍵は変わっていません。この曲の浮遊感の正体は、かなりの部分がここにあります。
まず、楽譜から読み取れる事実
初版の版元 E. Fromont の1905年版を底本にした組版データから、数値を機械的に抜き出しました。
| 項目 | 値 |
|---|---|
| 曲 | 組曲《ベルガマスク》第3曲「月の光」 |
| 作曲 | 1890〜1905年 |
| 初版 | 1905年 パリ、E. Fromont |
| 調 | 変ニ長調(フラット5つ) |
| 拍子 | 9/8(全曲を通して変化なし) |
| メトロノーム指定 | なし |
| 反復記号 | なし |
| 冒頭の指示 | Andante très expressif / con sordina |
第37小節で、何が起きているのか
調号の切り替わりを小節番号で押さえると、こうなります。
| 小節 | 発想標語 | 調号 | 強弱 |
|---|---|---|---|
| 1 | Andante très expressif | 変ニ長調(♭5) | — |
| 15 | Tempo rubato | 変ニ長調 | — |
| 27 | Un poco mosso | 変ニ長調 | pp |
| 37 | En animant | 嬰ハ短調(♯4) | — |
| 43 | Calmato | 変ニ長調(♭5) | pp |
| 51 | a Tempo 1º | 変ニ長調 | — |
| 66 | — | 変ニ長調 | ppp |
第37小節から第43小節までの7小節間だけ、嬰ハ短調で書かれています。
ここで重要なのは、変ニ(D♭)と嬰ハ(C♯)が、ピアノでは同じ鍵だということです。音の高さは1ミリも動いていません。
なぜ、わざわざ書き換えるのか
変ニ長調を同じ主音のまま短調にすると、変ニ短調になります。
この調は、フラットが8つ必要です。五線譜の調号にフラットは7つまでしか置けません。8つ目を書こうとすると、重フラット(1音を2つ下げる記号)が出てきて記譜が破綻します。
そこで、同じ高さの嬰ハ短調に読み替えて書きます。こちらはシャープ4つで済みます。
| 記譜 | 実際の鍵 | |
|---|---|---|
| 変ニ短調(書けない) | フラット8つ | — |
| 嬰ハ短調(実際の記譜) | シャープ4つ | 同じ |
つまり第37小節で起きているのは、転調というより「綴り直し」です。響きとしては変ニ長調が同じ高さのまま短調に翳る。記譜としては♭5が♯4に入れ替わる。
「調号が変わる=転調」ではない
楽譜の途中で調号が変われば転調した、と読むのが素朴な理解です。この曲は、その理解が通らない実例になっています。
奏者の側から見ると、感覚はさらに奇妙です。押している鍵は同じなのに、楽譜の景色だけが一変する。フラットだらけのページが、突然シャープだらけになります。
聴き手にとっては、ここが曲の中でいちばん翳る場所です。En animant(動きを出して)と指示があり、7小節だけ性格が変わって、Calmato(落ち着いて)で元の明るさに戻ります。
この「同じ場所にいながら色だけが変わる」感触が、浮遊感と呼ばれるものの一部を作っています。
強弱記号は、全部で8個しかない
約70小節の曲に、強弱記号がいくつ書かれているか数えました。
| 記号 | 回数 |
|---|---|
| ppp | 1 |
| pp | 4 |
| p | 2 |
| f | 1 |
| ff / fff / sf | 0 |
合計8個。f はたった1回で、それより強い指示は存在しません。
当誌では先月、ベートーヴェンの「月光」第1楽章を同じ方法で数えました。69小節に強弱6個、f 系はゼロ。規模も、強弱の少なさも、ほぼ同じです。
1801年のベートーヴェンと1905年のドビュッシー。100年離れた2曲が、どちらも「大きな音を書かない」という同じ選択をしています。
速度は、言葉でしか決まっていない
この曲にはメトロノーム指定が一切ありません。速度に関する指示は、すべて言葉です。
Tempo rubato(拍を揺らして)、En animant(動きを出して)、Calmato(落ち着いて)、a Tempo 1º(最初の速さで)。どれも数値を伴いません。
演奏ごとに長さが変わる理由は、解釈の幅という以前に、楽譜が数値を決めていないことにあります。「速い演奏」「遅い演奏」という評価の前に、そもそも基準が書かれていない曲だということです。
書法の細部
残りの要素も数字で押さえておきます。
アルペジオ記号が12回。和音を同時に鳴らさず、下から順に分散させて弾く指示です。輪郭をぼかす効果があります。
冒頭から con sordina。左のペダル(弱音ペダル)を踏んだまま始めよ、という指定です。音量だけでなく音色そのものを最初から落としています。
9/8拍子。1小節が3拍で、各拍がさらに3分割されます。3の入れ子構造です。「月光」第1楽章を支えていた3連符と同じく、3で割る動きが全体の土台になっています。
2曲を並べると
「月光」と「月の光」。邦題が似ているせいで混同されがちな2曲ですが、楽譜を数字で並べると共通点が見えてきます。
| 月光 第1楽章 | 月の光 | |
|---|---|---|
| 小節数 | 69 | 約70 |
| 強弱記号 | 6個 | 8個 |
| f 系 | 0回 | 1回 |
| 3分割の動き | 3連符 | 9/8拍子 |
| 嬰ハ短調 | 全体の調 | 第37〜43小節 |
どちらも嬰ハ短調という同じ調号を通ります。片方は曲全体の調として、もう片方は7小節だけの翳りとして。
似ているのは邦題だけではなかった、ということです。続けて聴くと、100年の隔たりの中にある共通点のほうが見えてきます。