配信サービスで古い録音を再生すると、音が真ん中に固まって聞こえることがあります。モノラルです。
モノラルは1チャンネル。すべての音が単一の点に集まります。ヴァイオリンが左、チェロが右、といった楽器の位置は出ません。
それでも、モノラル録音は聴かれ続けています。理由のいちばん大きな部分は、好みの話ではなく年号の引き算で説明がつきます。
ステレオは、いつ始まったのか
技術としてのステレオは、意外に早く登場しています。節目を公的な記録から並べました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1931年12月 | アラン・ブラムラインが英国特許394,325を出願(受理は1933年6月) |
| 1932年3月 | ベル研究所とストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団がステレオ録音を開始 |
| 1932年3月12日 | 現存する最古の意図的なステレオ録音(スクリャービン《プロメテウス》) |
| 1954年半ば〜1955年 | ステレオ用オープンリールテープが市販される |
| 1958年 | 商用ステレオLPの一般発売(先行デモ盤は1957年12月) |
この並びで押さえておきたいのは、ブラムラインとベル研究所の役どころが違うことです。ブラムラインは方式と特許の先駆、ベル研究所は現存する録音の先駆。どちらが「最初」かは、何を数えるかで変わります。
注目したいのは、実験から商品になるまでに26年かかっていることです。技術が存在することと、一般の聴き手が買えることは別でした。
間に合わなかった人たち
ここで、演奏家の生没年を同じ時間軸に置きます。
| 演奏家 | 生没年 | 1958年との関係 |
|---|---|---|
| ヴィルヘルム・フルトヴェングラー | 1886年 — 1954年 | 商用ステレオLP発売の4年前に死去 |
| アルトゥーロ・トスカニーニ | 1867年 — 1957年1月16日 | 発売の前年に死去 |
トスカニーニがNBC交響楽団の音楽監督を務めたのは1937年から1954年まで。その全期間が、商用ステレオLPより前にあります。
つまり、この2人の演奏を聴きたければモノラルで聴くしかありません。これは価値判断ではなく、年数の差です。代わりの選択肢が存在しない、というだけのことです。
20世紀前半に活躍した演奏家の多くが、同じ条件に置かれています。録音方式を選べる立場になかった人たちです。
「音が悪い」という話ではない
モノラル録音をめぐっては、「古い音は劣る」という評価と、「かえって音楽の芯が見える」という評価の両方があります。
後者は選好であって、事実ではありません。同じように、前者も事実とは言い切れません。
この点については、公的機関が立場を明らかにしています。米国議会図書館の復刻に関する公式文書は、古い録音をどう扱うべきか——当時の音をそのまま尊重するか、現代の聴衆向けに作り変えるか——について、「合意はない」と明記しています。
そして良し悪しの判断は「常に、不可避的に主観的」な芸術的基準である、とも書かれています。
公的な保存機関が「これは主観の問題だ」と認めている、という事実は押さえておく価値があります。どちらが正しいかを決める基準は、そもそも存在しないということです。
ジャケットの「STEREO」を疑う場面
実用的な注意点がひとつあります。
1960年代初頭、ステレオ盤のカタログが足りないレーベルが、モノラル録音を機械的に加工して「ステレオ風」に仕立てた再発盤を出していました。擬似ステレオと呼ばれます。
呼称はレーベルごとに違い、Capitol は “Duophonic”、RCA は “Electronically Reprocessed Stereo”、Columbia は “Electronically Re-Channeled for Stereo” などと名乗りました。
処理の中身は、モノラル信号を2つに分け、片方をわずかに遅らせ、一方は低音を削り、他方は高音を削るというものです。残響を足したものもあります。
当時から批判がありました。1958年3月の業界誌が、ステレオ用カタログの不足したレーベルが「モノラル盤に細工してステレオ効果の印象を作る」可能性を既に報じています。
1950年代の録音なのに、ジャケットに「STEREO」と書かれている。この場合は擬似ステレオの可能性があります。元がモノラルなら、素直にモノラルで聴くほうが情報は失われません。
公的機関が、制度として保存している
古い録音の価値は、個人の好みの外側でも認められています。
米国議会図書館の National Recording Registry は、文化的・歴史的・美的に重要な録音を登録して保存する制度です。1931〜32年のベル研究所の実験録音は、2002年に登録されています。
音質の優劣とは別の軸で、録音が残されているということです。記録としての価値は、再生技術の世代とは関係なく存在します。
どう聴くか
モノラル録音を聴くときに、知っておくと役に立つことを整理します。
| 見る点 | どう考えるか |
|---|---|
| 録音年 | 1958年より前なら、モノラルしか選択肢がなかった時期 |
| 演奏家の没年 | 1950年代までに亡くなっていれば、ステレオ録音は存在しない |
| ジャケットの表記 | 古い録音に「STEREO」とあれば、擬似ステレオを疑う |
| リマスターの表記 | 「◯年録音/◯年リマスター」は、録音そのものと復刻作業の年が別 |
楽器の位置が分からないことは、確かに情報の欠落です。ただ、その欠落と引き換えに聴けるものがあるという事情も同時にあります。
どちらを取るかは聴き手が決めることですが、「選べない」演奏家がいるということだけは、好みの話より先に来ます。