「悲愴」と検索すると、2つの曲が出てきます。チャイコフスキーの交響曲第6番と、ベートーヴェンのピアノソナタ第8番です。
この記事で扱うのは後者、ピアノ1台の曲のほうです。正式名はハ短調 作品13。初版から「大ソナタ・パテティーク」という標題が付いていました。
録音は1933年から2004年まで、7枚を並べます。同じ楽譜なのに、聴き比べると別の曲に聞こえる瞬間があります。
ピアノの聴き比べは、テンポでは差が出ない
当誌では以前、『運命』の名盤6枚を聴き比べました。あのときの物差しは、冒頭のフェルマータの長さ、テンポ設計、楽章のつなぎ方。要するに指揮者が100人のオーケストラをどう動かすかの差でした。
ピアノ独奏では、同じ物差しが効きません。一人の奏者が一台の楽器を鳴らすので、全体のテンポを測っても差が見えにくいのです。
代わりに差が出るのは、こちらです。
| 何が違うか | どう聞こえるか |
|---|---|
| タッチ | 鍵盤を押す速さと深さ。同じ音符でも、押し方が変われば音色が変わる |
| ペダリング | 音をどこまで残すか。にじませるか、粒を立てるか。独奏で最も個人差が出る |
| 左右のバランス | 旋律と伴奏の音量差。伴奏を薄く敷くか、対等に鳴らすか |
| 繰り返しの扱い | やるかどうか、どこへ戻るか。演奏時間が変わる |
| 使用楽器 | モダンピアノか、作曲当時のフォルテピアノか |
「速い・遅い」で語ると、ピアノの聴き比べは始まりません。入口はタッチです。
7枚を、録音データで並べる
各レーベルや販売元の商品ページに散らばっていた情報を、1枚の表にまとめました。時代順です。
| 演奏者 | 録音年 | 録音場所 | 方式・楽器 |
|---|---|---|---|
| シュナーベル | 1933年10月/1934年4月 | ロンドン、アビイロード第3スタジオ | モノラル(SP) |
| バックハウス | 1958年10月 | ジュネーヴ、ヴィクトリアホール | ステレオ |
| ケンプ | 1964–65年 | ハノーファー、ベートーヴェンザール | ステレオ |
| グルダ | 1967年7〜8月 | ウィーン | ステレオ |
| ギレリス | 1980年9月 | ベルリン、イエス・キリスト教会 | ステレオ |
| ブラウティハム | 2003年8月 | スウェーデン、オスタレーカー教会 | フォルテピアノ |
| シフ | 2004年11月 | チューリヒ | ステレオ(ライヴ) |
選び方には意図があります。SP期の歴史的録音を1枚、戦後ドイツ系の対照的な2人、モダンピアノの名手を2人、作曲当時の楽器を1枚、現代のライヴを1枚。同じ系統を並べていません。
ものさし1:冒頭30秒のGrave
第1楽章は、Grave(きわめて遅く)という序奏から始まります。重い和音が鳴り、付点のリズムが刻まれる部分です。
ここで差が出る理由は2つあります。ひとつは付点をどれだけ鋭く取るか。もうひとつは最初の和音をどれだけ深く沈めるかです。
さらにこの序奏のあと、主部は Allegro di molto e con brio(きわめて速く、生き生きと)に変わります。楽章の中に極端な速度差がある構造です。この落差を「断絶」として見せる奏者と、「連続した加速」としてつなぐ奏者に分かれます。
この曲が特別なのは、序奏の Grave が一度きりで終わらない点です。展開部の前と、コーダの前にも戻ってきます。1回目・2回目・3回目で表情を変えるか、同じに保つか。ここも奏者の設計が出ます。
聴き方の提案です。7枚の冒頭30秒だけを、続けて再生してください。曲を通して聴くより、差がはっきり出ます。
ものさし2:繰り返しを、どこへ戻るか
第1楽章の提示部には、繰り返しの指示があります。問題はどこへ戻るかです。
楽譜の記号を素直に読めば、主部 Allegro の開始点へ戻ります。一方で「序奏の Grave ごと繰り返すべきだ」とする立場もあります。根拠として挙げられるのは、この曲では Grave が後にも回帰するという構造上の事実です。どちらが正しいかは、いまも決着していません。
加えて、そもそも繰り返しを行わない盤もあります。特にSP期の録音は、片面の収録時間に制約がありました。
ここが実用的なのは、演奏時間が違っても、速さの違いとは限らないと分かることです。配信画面で第1楽章の長さを見比べて、短い盤が本当に速いのか、それとも繰り返しをしていないのかを考えてみてください。
ものさし3:第2楽章の歌わせ方
第2楽章 Adagio cantabile は、この曲で最もよく知られた部分です。変イ長調、小ロンド形式。左手の分散和音の上を、右手が歌います。
聴きどころは3つあります。
| 見る点 | 何が分かれるか |
|---|---|
| 左右の音量差 | 伴奏を薄く敷くか、伴奏も対等に鳴らすか |
| ペダリング | 和声ごとに踏み替えて清潔に保つか、長く残して溶かすか |
| 主題が戻るたびの変化 | 装飾や内声を変えるか、統一するか |
3つ目がいちばん設計思想の出る場所です。この楽章は主題が3回出てきます。1回目と3回目を続けて聴くと、その奏者が「同じものを繰り返す」と考えているか、「変えていく」と考えているかが見えます。
最後の1枚で、前提がひっくり返る
7枚のうち6枚はモダンピアノです。残る1枚、ブラウティハム盤だけがフォルテピアノ。ベートーヴェンの時代の楽器です。
違いは構造から来ます。フォルテピアノは音の減衰が速く、低音が軽い。同じようにペダルを踏んでも、響きの残り方が根本的に違います。
結果として、Grave の重い和音は「のしかかる塊」ではなく「鋭い衝撃」として鳴ります。第2楽章の左手の分散和音も、にじまずに粒で聞こえます。
この1枚を最後に置くと、それまでの6枚が「モダンピアノという共通の前提の上での差」だったことが分かります。順番としては、ここで締めるのが効きます。
同時に、モダンピアノでなぜペダルの扱いが問題になるのかも、逆から見えてきます。響きが残りすぎる楽器だからこそ、どう切るかが技術になる、ということです。
どこから聴くか
7枚を順番に通すのは大変です。3段階に分けるのが現実的だと思います。
| 段階 | やること |
|---|---|
| 1 | 7枚の冒頭30秒だけを続けて聴く。タッチの差がいちばん出る |
| 2 | 気に入った2枚で、第2楽章を通して聴く。歌わせ方の違いを見る |
| 3 | 最後にフォルテピアノ盤。前提そのものが変わる |
どれが正解という話ではありません。1933年から2004年までの70年で、同じ楽譜がどう読まれてきたかが並んでいる。その幅そのものが、この曲が残ってきた理由でもあります。
第2楽章の構造そのものについては、別の記事で小節単位に分けて書いています。