「月光」第1楽章 なぜ、あの3連符だけで曲になるのか

若き日のベートーヴェンの肖像画(1803年・ホルネマン画)に、「フォルテはゼロ。」の見出しを重ねたアイキャッチ
画=Ludwig van Beethoven/Christian Horneman, 1803(Wikimedia Commons, パブリックドメイン)/文字は編集部

「静かなクラシック」のプレイリストには、たいていこの曲が入っています。ベートーヴェンのピアノソナタ第14番、通称「月光」の第1楽章。派手なことは何も起きないのに、5分間、耳が離せない。あの引力はどこから来るのでしょうか。

今回、編集部で楽譜の組版データを機械的に数えてみました。すると、印象ではなく記譜の事実として、この楽章の異様さが見えてきました。全69小節に、強弱記号は6個しかありません。しかも全部、p(ピアノ=弱く)か pp(ピアニッシモ=ごく弱く)。f(フォルテ=強く)は一度も出てこないのです。

この記事では、その数字から出発して、3層の書法、ベートーヴェン自身の演奏指示、そして「型に当てはまらない形式」まで、第1楽章の設計を読んでいきます。

♪ 試聴:ベートーヴェン「月光」第1楽章 Adagio sostenuto

“Sonata No. 14 ‘Moonlight’, Op. 27 No. 2 – I. Adagio sostenuto” by Paul Pitman / Musopen / Public Domain

数えてみた:強弱記号は6個、フォルテはゼロ

楽譜の組版データ(Mutopia Project、底本は1908年の実用版)から、強弱にかかわる記号を全部数えた結果がこれです。

記号出現回数
pp(ピアニッシモ)4回
p(ピアノ)2回
f(フォルテ)0回
ff(フォルティッシモ)0回
sf(スフォルツァンド=その音だけ強く)0回
フェルマータ(音を延ばす記号)2回

※ 編集部がMutopia Projectの組版ソース(底本:Berners, 1908/Winterberger校訂)から機械的に抽出した実数。cresc./decresc.(だんだん強く/弱く)の語は別に数箇所あります。

ベートーヴェンといえば、突然のsfや、ppからffへの落差で知られる作曲家です。『運命』第1楽章の解説(ソナタ形式は、『運命』第1楽章で覚える)で見たのは、まさにその設計でした。ところがこの楽章では、その武器を自分で全部封じています。「静かな曲」というのは雰囲気の話ではなく、譜面に書かれた縛りなのです。

強弱という変化の軸を捨てたら、音楽は何で動けばいいのか。答えが、あの3連符です。

3つの層が、役割を分担している

第1楽章の書法は、終始3つの層でできています。組版データでも、譜面はちょうど3つの声部ブロック(旋律・3連符・低音)に分かれて記述されていました。

第1楽章の3層構造(編集部作成) 上層:旋律 同じ音を刻む付点リズムで、短い序奏のあとに歌い出す。動きは最小限 中層:3連符の分散和音 1小節も休まず流れ続ける。和音の変化を時間の中に引き延ばす装置 下層:低音(オクターブ) ゆっくり沈んでいき、和声の土台を支える 強弱の変化を封じた代わりに、3つの層の重なり方だけで音楽が進む
編集部作成。Mutopia Projectの組版ソースが旋律・3連符・低音の3ブロックに分かれていることにもとづく。

中層の3連符は、ほぼ全小節を流れ続けます。これが何をしているかというと、和音をアルペジオ(分散和音)として時間の中に引き延ばしているのです。和音をジャーンと同時に鳴らせば一瞬で終わりますが、3つずつ順番に鳴らせば、和音の色の変化が「流れ」として聴こえます。

つまりこの楽章の主役は、旋律ではありません。3連符の中で少しずつ移り変わっていく和音の色です。旋律は上層で同じ音を刻むだけの場面が長く、動きの主導権をあえて持ちません。強弱もなく、旋律も動かない。残った「和声の変化」だけに耳が集中するように設計されているから、あの5分間は退屈しないのです。

拍子は4/4ではなく、2/2

もうひとつ、譜面を見ないと気づけない事実があります。この楽章の拍子は2/2(アラ・ブレーヴェ)です。ゆっくりした曲なので4/4だと思われがちですが、違います。

2/2は「1小節を大きく2つに数える」拍子です。1拍ごとに区切って引きずるのではなく、大きな2拍で流れていく設計だということ。3連符が「12個の音の粒」ではなく「2つの大きなうねり」に聴こえる演奏は、この拍子を踏まえています。聴き比べのときの、いい着眼点になります。

ベートーヴェン自身の指示は「ダンパーなしで」

楽譜の冒頭には、ベートーヴェン自身によるイタリア語の指示が書かれています。

Si deve suonare tutto questo pezzo delicatissimamente e senza sordini
(この曲全体を、きわめて繊細に、そしてダンパーなしで演奏すること)

「ダンパーなし」とは、弦の振動を止める部品を外したまま、つまりペダルを踏みっぱなしで弾けという意味です。当時のピアノは現代より響きが早く減衰したので、踏みっぱなしでも和音は濁りすぎませんでした。ところが現代のピアノで文字どおり実行すると、和音同士が濁って混ざってしまいます。

作曲者の指示を、現代の楽器ではそのまま守れない。そこで奏者は、和音が変わるたびにペダルを踏み替えるか、半分だけ踏むか、割り切って濁らせるかを選ぶことになります。録音ごとに響きのにじみ方が違うのは、まさにこの一文の処理の違いです。

※ テンポについて。底本の1908年実用版には♩=54という数字がありますが、これは校訂者ヴィンターベルガーの指示で、ベートーヴェン自身はこの曲にメトロノーム数字を残していません。

形式は「割れる」。だから副題が答えになる

玄人向けの論点をひとつ。この楽章の形式は、文献によって説明が割れます。ソナタ形式の変形とする説、三部形式とする説、既存の型に当てはめない読み方。どれかが正解と決められないのです。

ここで効いてくるのが、ベートーヴェン自身が付けた副題です。作品27の2曲のソナタには、どちらも「Sonata quasi una fantasia(幻想曲風ソナタ)」と書かれています。型どおりのソナタではない、という宣言を最初からしているわけです。型に当てはめようとすると割れるのは、当てはめる側の問題ではなく、曲がそう作られているから。副題という一次情報が、いちばん正直な説明になっています。

ちなみに「月光」という通称も、ベートーヴェンの命名ではありません。詩人レルシュタープが、この楽章をルツェルン湖の月光に例えたことから広まったもので、その言及はベートーヴェンの死後です。本人が残した名前は「幻想曲風ソナタ」だけでした。

この楽章は、単独で完結しない

最後に、楽譜の末尾の指示を。第1楽章の終わりにはattacca subito il seguente(切れ目なく、すぐ次の楽章へ)と書かれています。つまりこの楽章は、単独で閉じる曲として書かれていません。

pp中心の第1楽章から、優美な第2楽章を経て、嵐のような第3楽章 Presto agitato へ。封じられていたフォルテは、終楽章で一気に解放されます。第1楽章の「静けさの縛り」は、そこまで含めた全体設計の一部なのです。プレイリストで第1楽章だけを聴くのももちろんありですが、たまには attacca の指示どおり、最後まで通して聴いてみてください。あの3連符の意味が、もう一段深く見えてきます。

作品情報

作品名
ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2「幻想曲風ソナタ」(通称「月光」)
初版
1802年/ウィーン、Gio. Cappi e Comp.(Plate 879)
楽章構成
第1楽章 Adagio sostenuto(嬰ハ短調・2/2拍子・全69小節)/第2楽章 Allegretto/第3楽章 Presto agitato
演奏時間
全曲約15〜16分
編成
ピアノ独奏